『百鬼園事件帖』三上 延

「君には世間一般の常識と異なる、君なりの秩序がある。それはある種の狂気だ。だからこそ、人とは違うものが書ける」

百鬼園事件帖 (角川書店単行本)

 

昭和初頭の東京で、偏屈教授の内田榮造先生(内田百閒)と大学生の甘木が遭遇する怪奇譚。

 

百閒の字が百間になっているのが気になっていたが、これは内田百閒デビュー前の表記と知り納得した。タイトルが事件帖、なので著者の既刊「ビブリア古書堂の事件手帖」を連想するが、本作の内容的には「怪異譚」のほうがしっくりくる。

怪異と現実のバランス程度としては、梨木果歩以上京極夏彦未満といったところである。これはあくまでも著者の語り口がライトで、端的な表現のなかに不穏なものをかみ砕き、怪しさを表現しているためだ。

 

森見登美彦氏と三上延氏が過去に対談していた記事を追い切れていないが、お二人とも内田百閒を読み込まれているとのお話があったように思う。内田百閒の文章のリズム感、非現実で異質なものが現れる際のひんやりとした世界観は、両氏の作品―例えば『夜行』、本作―の背後にちらちらと見え隠れしている。

 

怪談の怖さは意味が分からない恐怖によるものではなく、日常生活のなかであるとき急に、薄いオブラート1枚を剥いだ向こう側に、自分の知らないなにかが見えてしまったときに感じる慄きによるものである。

そのようななにかを仕掛けるのも狂気だし、気付いてしまうのも、もはや狂気に足を絡めとられているといって支障ない。

 

本作の内田榮造先生は人間味に溢れており、偏屈具合は一級なのに弱い一面も隠し切れずに漏れてくるのが、大変魅力的に映る(思わず子弟としてついていきたくなる)。甘木をはじめ周囲の登場人物も癖が強い。

甘木は自らを凡庸といいながらも客観的にみれば非凡であり、内田榮造先生といることで自身の才能(この世ならざるものとの接点が強いことが、良いか悪いかはさておき)を開花させていることに気づけていないのが、今後どう影響してくるだろうか。